(無題) 投稿者:むぎまる 投稿日:06/05(火)21時10分09秒 ■ ★ ちょっと事情があって死ぬかもしれないです(笑い 一応遺書をしたためておきました。 後半部分は個人的過ぎて、もし生きてたときのこと 考えるとマズイので前半だけここに転載しときます。 まぁ五体満足で生きてれば今夜中にここになんか書くでしょう。 # ここから 人にとって死は必ず訪れるものであり、決して避けることはできない。 またそれはいつ襲ってくるかはわからない。それを未然に防ぐ努力を したとしても、だ。死は誰に対しても等しく訪れる。 老子曰く「天道に親なし。常に善人に与す。」という。 俺は、司馬遷が語る伯夷の如き善人でもなければ 盗蹠の如き大悪党でもない。しかしこうして夭折することになった。 下の句は必要ない。「天道に親なし。」これだけでよいのだ。 「人は何の為に生きるのか?」という問いがある。 そもそも、死というものは無に帰す、ということだ。 血が流れ、呼吸をし、活動していたものが動かないただの物体に なり、いつしか朽ち果てて消えてゆく。それが死だ。 老子曰く、無があればこそ有があり、そして活きてくるという。 もし人に死というものがなければどうであったろうか。 恐らく類人猿のまま進化せず、ただ何も考えず怠惰に過ごし 続けていくだろう。死があるからこそ我々はその生をまさしく 「有意義」に過ごそうと努力するのである。 しかしいかに有意義に過ごしたとしても人は満足しないかもしれない。 欲望というものは尽きることはないのだから。けれども27年間生きてきた 今の俺は後悔することはない。もちろんやり遺したことや、やりたかった ことは山ほどある。しかし27年間で出きることは概ねやれたと思っている。 もっと努力できたこともあるが俺としては上出来だ。 満足はしていないが不満もない。27歳の俺はある程度の有意義さをもって 人生を過ごせたと自負している。だから今これを書いていながら、訪れるかも しれない死を思っても、恐ろしさというものは感じない。もちろん それが目前に迫ればどうなるかはわからない。死を恐れるのは人間の 本能なのだから。賈子曰く「衆庶は生を貪る」という。しかしどんな人間 も死を恐ろしいと思わないとは考えられない。人にとってもっとも恐ろしい ことだからこそ、古来より何かに殉じていくことが美徳とされているのでは ないか。では俺は何に殉じていくのだろうか。 こうやって遺書を書いている暇があるのなら死を避けるべき努力を するべきだと思うかもしれない。しかしそれはしない。 どうせ死ぬわけがないとも思わない。もし死んだとしてもそれは 運命なのだから。俺が自ら選択して得た結果なのだから。 俺は俺自身に殉じていくのだ。 だから悲しまないで欲しい。 誰にでも等しく訪れる死がやってきたに過ぎないのだから。 俺は不満や後悔の念を抱いて死んでいったのではないのだから。 俺は俺のために生きて、俺のために死んでいったのだから。 http://mugimaru.virtualave.net/cgi-bin/bbs.cgi